• Panasonic DMC-GF2, Interstate 15, California, 2012

    I-15に乗っている間じゅう、ずっと晴れていた。

    レンタカーは、フォードのスタンダードクラス。ダッシュボードの上に、無造作に砂袋で据え付けられたGARMINのカー・ナビゲーションは、ただまっすぐ、行く先を指すだけだった。

    フォトグラファーとそのアシスタントと私、3人で交代しながらハンドルを握った。

    これ、ナビを借りた意味あったのかな。

    5時間、4時間、3時間と、到着までの時間が減ってゆく。

    ゆるやかに上ったり下ったりしながら走る。車窓はただ、砂漠を映しているだけだ。時折、ガス・ステーションやダイナーの巨大な看板が通り過ぎる。スピード・リミットは70マイル。走っても走っても、永遠のように同じ風景が過ぎてゆく。

    まるで、日々のように。

    連なる赤い貨物列車が併走して近づき、やがて離れていった。

    ロサンゼルスでの仕事を終え、ラスベガスまで車を走らせてみようと考えたのは、ほんの思いつきだった。創刊といわれて異動した新しい部署。プロジェクトリーダーを任命されて準備を進めるうち、会社から思いがけない判断が下された。

    創刊ではなく、既存の定期刊行誌の名を冠した、一回きりの別冊に変更。

    …なぜ、今になって。

    これまで社外から集めてきたスタッフと予算は、そして進行中の数々の企画は。定期刊行を前提に、多くのものごとを動かしていた。ロサンゼルスでのファッション撮影も、そのうちのひとつだった。

    振り切るように、スタッフとともに渡航した。

    ロデオ・ドライブからサンタモニカ・ビーチまで、現地でのモデルのオーディションとファッション撮影。日本でアイドル活動をしたのち、ハリウッド俳優になった女性の撮影とインタビュー。現地ではたらく日本人女性たち。

    すさまじいスピードで進めることができたのは、立ち止まって考えたくなかったからかもしれない。

    結果、予備日を使わずに済んだ。1日、余裕ができた。

    明日はどうする。まさか、いまさらハリウッド・ウォーク・オブ・フェームまで行きたいわけじゃないだろう? だったら、今日のうちに車でラスベガスまで走ってみるか。そう決めて、出かけたのだ。

    カー・ナビゲーションのアナウンスは女性の声だった。よくしゃべるその声を聞き飽きていたくらいだ。ところがI-10からオンタリオを過ぎてI-15へ入ったとたん、黙り込んだ。なにしろ、ひたすら北東へとまっすぐ向かうだけだったから。

    しばらくすると、いきなり彼女が口を開いた。

    「ゴー・ストレート」。

    それから幾度か休憩をして、運転を交代しながら走った私たちに、彼女は思い出したように声をかけてきた。「ゴー・ストレート」。

    最初は楽しかった運転も、変わらぬ景色を眺めながら、いつ尽きるともわからない道を走っていると、だんだんつらくなってくる。どうして私たち、ラスベガスに行こうと思ったんだっけ。そんな気持ちすら湧いてきた。皆、無口になる。

    Panasonic DMC-GF2, Interstate 15, California, 2012

    夕闇があたりを包んだかと思うと、砂漠はストンと暮れた。あとはただ、夜をゆくだけとなった。

    「ゴー・ストレート」と、時折、思い出したように彼女は言う。

    50回、いや、100回聞いたかもしれない。

    遠くが急にふわりと明るくなった。ぽつり、ぽつりと看板が行き過ぎたかと思うと、いきなり大量の照明に包まれる。

    ラスベガスに着いたのだ。

    I-15と平行に走るストリップを彩るネオンサインがキラキラと光って、ようこそラスベガスへと派手に告げる。まさに砂上の楼閣。この街がこんなところにあるとは、飛行機で来ているだけではわからないままだったかもしれない。

    宿は、高層ホテルの上階だった。翌朝、窓から見下ろした街は、夜の光が嘘のような舞台装置に見えた。

    私たちはまたロサンゼルスに向けて帰った。けれど、帰路のことはあまり覚えていない。

    そして、いまでも思い出すのは、ただひたすらに続く道と、あの無機質な彼女の声なのだ。

    漕ぎだしたのに、もう帆をたたまなければならないことがわかっているプロジェクトに、ただ一度だけの責任者として、自らの名を刻むことになる。そのときの私に、あまりにもふさわしい言葉だったからかもしれない。

    ゴー・ストレート。

    インターステート15、ラスベガスまで。

  • iPhone 5, Bagan, Myanmar, 2012

    もう14年前のことになる。ミャンマーに行った。約10日間。長い1人旅。

    ミャンマーに入国するにはビザが必要だ。品川のミャンマー大使館に書類を出しに行った。窓口で名刺を提示せよといわれた。名刺を見た係員は眉をひそめてこう言った。

    「…あなたにはビザが下りないかもしれない」

    ミャンマー。古い名称は、ビルマ。そのほんの数年前まで軍事政権だったこの国は、マスコミの入国を極端に嫌う。私はファッション誌の編集者だ。ジャーナリストではない。そう訴えたが、彼らは首を横に振るばかりだった。「関係ない。あなたの勤務先がマスコミなのだ」と。

    マレーシア経由でのフライトを予約していた。一日、一日と出発の日が近づいてくる。通常一週間足らずで下りるといわれているビザだが、二週間経っても音沙汰なしだった。フライトのキャンセルを覚悟した。

    出発が三日後に迫った時、電話がかかってきた。「あなたのビザが下りた」と。受け取りに行くと、英文の書類を手書きで書かされた。

    決して、国内で見聞きしたことを言わない。書かない。写真を発表しない。

    そしてサインをした。本当か? ブログもだめなのか? ソーシャル・ネットワークへの投稿もだめなのか?

    同じような目に遭った人はいないかと検索してみたところ、「後日、ブログに書いたところ、以降、二度とビザが下りなくなった」という人がいた。観念した。記録を取れない旅なのだと。

    当時のミャンマー国内でクレジットカードは使えなかった。現金は新札の米ドルしか受け付けてもらえない。ATMもない。

    アクシデントで、途中で米ドルが尽きてしまった。途方に暮れ、なんとか少し余分に持っていたユーロがミャンマーチャットに換金できる銀行を探した。

    それだけで1日かかってしまうような旅だった。

    ヤンゴンからさらにフライトを乗りついで1時間。バガンという古都に数日間、滞在した。小学校の社会科では「イラワジ川」という名で習ったが、今では「エーヤワーディー川」といわれる。広くゆったりと流れる河川沿いの広い土地に、4000以上もの寺院が点在し、朝霧に沈む。そんな場所だった。

    iPhone 5, Bagan, Myanmar, 2012

    英語ができるタクシーの運転手が言った。「今日はこの村で満月祭りがあるよ」。ミャンマーでは宗教上、満月が大きな意味を持っている。満月の夜に年に数回、その地域の村の持ち回りで祭りをひらくらしい。

    たまたま私の滞在していた村でその祭りがあるのが、到着した夜だった。知らなかった。祭りのことも、その日が満月だということも。

    村といっても繁華街があるわけではない。宿を出て、案内を買って出てくれた運転手とともに、寺院に向かう。ここでランタンが上がるから。ここにいると見えるから。ここから先は歩いていかなければならないから。そうやって手助けしてくれた。

    若者達がつくった、お釈迦様の絵が描かれた大きなランタンが空高くのぼっていって、満月に溶けて、そこから花火が四方八方に飛び散ると、歓声が上がった。

    誰も彼も、幸せそうだった。楽しそうだった。

    iPhone 5, Bagan, Myanmar, 2012

    寺院を通り抜けるとき、ロウソクに灯をともしてまわる少年がいたので、シャッターを切った。満月祭りが、ロウソクの光でお釈迦様を迎える祭りだと知ったのは、その後のことだった。

    …さて、禁を破って、今までどこにも書かなかったミャンマーのことをこうやって書き、出さなかった写真を置いた。もう、二度と入国できなくても悔いはない。

    あの時、満月祭りに出合えたことを、やっぱりいろんな人にこうやって伝えたかったから。

  • はさみ
    Leica Q3 43

    鋏(はさみ)を研いでもらった。

    小学校の家庭科の授業で使う裁縫箱の中に入っていた、裁ち鋏だ。これまで人生で20回は引っ越してきたけれど、そのたびに生き延びて、今も持っている。

    我が家がは都心なのだけれど、そんな場所にも、ぽつりぽつりと昔ながらの商売をしている店がある。近所に「包丁・刃物研ぎます」という看板をぶら下げた砥石店があるということは知っていた。

    店の入口
    Leica M(Typ240)Voigtlander NOKTON classic 40mm F1.4

    紙を切ったり、食品の袋を空けたり、宅配便の宛名シールを剥がしたりと40年あまり便利に使ううちに、どんどん錆びて、切れ味が悪くなっていった。

    違うものを見繕っては使ってみるのだけれど、なんとなくしっくりこなくて、すっかりくたびれた家庭科の裁ち鋏をまた取り出しては、手元に置いた。

    正月を過ぎたある日、散歩していたら、ふとひらめいた。この店ではさみを研いでもらうことはできないだろうか。聞くと、大丈夫だという。

    「けれど、新しいものをお求めになったほうが、安くつくかもしれませんよ」と女店主。

    古いはさみ
    Leica Q3 43

    いえ、研げるのであれば、お願いしたいのです。使いやすくて気に入っていますからと伝えると、そういう人はよくいると教えてくれた。

    大正14年創業というその店は、砥石の専門店。研ぐ、磨く、削るといった専門作業もおこなってきたそうだ。今はマンションの一角になり、刃物を研ぐ女店主の従兄弟は70代。

    水を使い、錆や砥石の粉も出る作業で、どうしても外仕事になるという。真冬は冷たい水で手がしびれて荒れてしまうけれど、飲み代を稼いでいるんだから、と笑っているそうだ。

    多くは包丁が持ち込まれ、月に平均50本は研いでいると聞いて驚いた。料理人などのプロばかりではなく、むしろ一般の人が多い。なかには3本、4本と持ち込む人もいる。

    幼い頃、母が家で砥石を濡らし、包丁をせっせと研いでいた記憶がある。そう話すと、今はそういうことを自宅でする人もきっと少なくなったのだろうという。

    ただ、従兄弟が引退すれば、もううちでは研ぐ人がいなくなってしまうのよ、と女店主は少しさびしそうに話してくれた。

    1週間ほど経つと、できたと連絡があったので受け取りにいった。料金は1200円。

    錆を落とし我が家に帰ってきた裁ち鋏は、午後の光に刃先を光らせシュキッ、シュキッという小気味のいい音を立ててさまざまなものを気持ちよくきれいに切ってゆく。

    はさみの刃
    Leica Q3 43

    やっぱり、新しい鋏を買わないでよかった。

  • Leica M(Typ240)Voigtlander NOKTON classic 40mm F1.4

    鯛焼きを頭から食べるか、尻尾から食べるか。永遠の論争らしい。

    はて、私はどうだったかと考えてみたのだけれど、ちっとも思い浮かばない。それもそのはず、これまでの人生で数えるほどしか鯛焼きを食べたことがないのだった。

    調べてみると、関東発祥の文化らしい。1909年に東京・麻布十番の浪花家総本店で誕生したというのが定説だ。

    しかし、故郷の熊本には「蜂楽饅頭(ほうらくまんじゅう)」がある。関東でいう「今川焼き」だ。学生時代、放課後に寄り道しての買い食いといえばこれだった。

    ゆえに、私にとっての永遠の論争は「黒あんか、白あんか」なのである。

    Leica M(Typ240)Voigtlander NOKTON classic 40mm F1.4

    今や東京に住んで30年余。そろそろ頭、尻尾論争に加わってもよいだろう。

    たまに通りかかる東京・恵比寿の「ひいらぎ」で鯛焼きを買って、近くの公園で食べてみた。何も考えずガブリと頭から食べた。

    2026年1月10日の朝日新聞に、「たい焼きは頭から? シッポから?」という記事が載っていた。このアンケート調査によると、頭からが74%とあった。理由でもっとも多いものは「無意識に。なんとなく」だった。

    つまり、私も多数派だったのだ。

    今度は尻尾から食べてみようかと思っている。

  • Leica Q3 43

    友人の家で七草粥をいただいてきた。

    子どもの頃に「せり、なずな、ごぎょう、はこべら、ほとけのざ、すずな 、すずしろ 、これぞ七くさ」と教わった。

    正月七日に若菜を粥に入れて食べる習慣は、平安時代前期の延喜(えんぎ)年間に始まると『日本国語大辞典』にある。のちに災厄を祓い、不老長寿を願うという中国の行事にも影響を受け、今に伝わるらしい。

    丁寧につくられたお粥はしみじみと滋味深く、若草の生命力にあやかりたいという古来の人の気持ちがようやくわかるようになった。

    お宅を辞して、自宅の最寄り駅を出たのが22時過ぎ。気温は1℃とある。この冬、いちばん冷える夜だ。7℃や8℃くらいの時は「寒いなあ」と思うのだけれど、ここまで気温が低いと、不思議とキンと澄んだ感じがするだけだった。

  • 東京の空のヴィーナスベルト
    Leica M(Typ240)Voigtlander ULTRON Vintage Line 35mm F2 Aspherical VM Type I

    海が陸になるところ、雨の降り始めと降り終わり、材料が料理になるとき。

    何かと何かの「間(あわい)」がとても好きだ。そこにははっきりした境目はなく、ただただ移り変わってゆくだけ。それがいい。

    とりわけ気に入っているのが、昼が夜になる時間だ。西に日が沈んで、東の空が青から紫、そして紺へと少しずつ移り変わってゆく。

    よく晴れたその時に、ほんのわずかな時間だけ現れる淡い桃色の帯を「ヴィーナスベルト」と呼ぶのだと、数年前に知った。とてもうれしかった。名が付いているのは、この美しくはかない光の帯を、ひとつの現象としてたしかにとらえようとした昔の人がいたということだ。

    沈んでいるように地上に見えている濃紺は、地球の影らしい。そしていつの間にかこの影の色が空を覆い、夜になっている。

  • 白梅の咲いた木
    Leica M(Typ240)Voigtlander ULTRON Vintage Line 35mm F2 Aspherical VM Type I

    かつて女子高校に通っていた。校章は白い梅の花だった。学生達は「白梅乙女」と呼ばれていた。

    思春期に同性だけの空間で過ごすのは、それはそれは心地よくて、私たちは狼藉の限りを尽くした。

    とはいっても、夏も長袖のセーラー服をまくりあげて半袖にしたり、下校までは校外に出てはいけないのに、正門を乗り越えてほっかほっか亭にのり弁当を買いに行ったりしていたくらいだけれど

    (お腹が減って減って、お昼までに持参したお弁当は食べてしまっていたから)。

    ある日校内に古墳が出て、発掘のために裏門が1年以上閉じていたことがある。裏門から帰る方が近い私たちは、閉じた門の上をよじ登って降り、近道をしていた。

    この時に制服のスカートにかぎ裂きの穴が開いたが、母につくろってもらい、卒業までそのスカートで通った。

    しかし、一歩学校の外に出ると、きちんと長袖に戻し、お辞儀の際は頭を30度の角度に下げて3つ数えた。入学してまず最初に、先輩方のこのお辞儀に度肝を抜かれ、学んで、身についたのだ。

    高校は私の卒業後、共学になった。「白梅乙女」だった学生達は、今は何と呼ばれるようになったのだろうかと、この季節になると思うことがある。

  • Leica M(Typ240)Voigtlander ULTRON Vintage Line 35mm F2 Aspherical VM Type I

    午前中のわずかな時間だけ日が差して、正午からはだんだん暗くなってゆく部屋に住んでいる。都心なので仕方ないのだけれど。

    ところが、季節が変わると急に思いがけないところから太陽が漏れてきて、驚くことがある。

    今朝もそうだった。小さな部屋の細長い窓から、急に輝く光が差しこんできた。ほんの10分くらいだったと思う。

    見てみると、この日17歳になった雄猫がその中に座っていた。まぶしそうに目を細め、満足げな表情だった。

    2026年1月1日の、朝のこと。

  • 団地に咲くピンクの薔薇
    Leica M(Typ240)Leica M(Typ240)Voigtlander ULTRON Vintage Line 35mm F2 Aspherical VM Type I

    幼少のころ、団地に住んでいた。まだ小学校に上がる前だ。

    狭い階段をのぼった最上階の4階に家があった。家の中のことはまったく覚えていないのだけれど、なぜか踊り場と、小さなベランダのことだけが記憶に残っている。

    踊り場では、近所の子たちとシャボン玉を吹いて遊んだ。家のいちばん奥の小さなベランダからは、母に抱き上げられて外を眺めた。父が車で帰ってくるのが見えた。

    昭和のころだ。周囲には畑が広がり、私は小さな赤い籠をもって、蓮華の花やクローバーを摘みにいった。空は高く、雲雀がくるくる飛んでピーチクパーチク鳴いていた。

    父と同じ職場の人たちが住む団地だった。きっと似たような家族がたくさん住んでいたのだろう。小さく慎ましい、同じような暮らしが縦横に同じサイズで並んでいた。

    私はあの頃の母より年上になり、都会に住んでいる。マンションの上下左右や近所のアパートや一軒家に住む人たちが、いったいどんな暮らしをしているのかまったくわからない。

    それは孤独なようでありながら、案外心地よいものでもある。

    年の瀬も近づいた週末、カメラを持って近所を歩いていたら、あの頃に住んでいたのとそっくりの団地を見つけた。周囲をまわって眺めていると、見事な薔薇がひと株、あった。

    堂々と咲きほこる冬薔薇と団地がなんともちぐはぐで心ひかれ、そっとシャッターを切った。