
鋏(はさみ)を研いでもらった。
小学校の家庭科の授業で使う裁縫箱の中に入っていた、裁ち鋏だ。これまで人生で20回は引っ越してきたけれど、そのたびに生き延びて、今も持っている。
我が家がは都心なのだけれど、そんな場所にも、ぽつりぽつりと昔ながらの商売をしている店がある。近所に「包丁・刃物研ぎます」という看板をぶら下げた砥石店があるということは知っていた。

紙を切ったり、食品の袋を空けたり、宅配便の宛名シールを剥がしたりと40年あまり便利に使ううちに、どんどん錆びて、切れ味が悪くなっていった。
違うものを見繕っては使ってみるのだけれど、なんとなくしっくりこなくて、すっかりくたびれた家庭科の裁ち鋏をまた取り出しては、手元に置いた。
正月を過ぎたある日、散歩していたら、ふとひらめいた。この店ではさみを研いでもらうことはできないだろうか。聞くと、大丈夫だという。
「けれど、新しいものをお求めになったほうが、安くつくかもしれませんよ」と女店主。

いえ、研げるのであれば、お願いしたいのです。使いやすくて気に入っていますからと伝えると、そういう人はよくいると教えてくれた。
大正14年創業というその店は、砥石の専門店。研ぐ、磨く、削るといった専門作業もおこなってきたそうだ。今はマンションの一角になり、刃物を研ぐ女店主の従兄弟は70代。
水を使い、錆や砥石の粉も出る作業で、どうしても外仕事になるという。真冬は冷たい水で手がしびれて荒れてしまうけれど、飲み代を稼いでいるんだから、と笑っているそうだ。
多くは包丁が持ち込まれ、月に平均50本は研いでいると聞いて驚いた。料理人などのプロばかりではなく、むしろ一般の人が多い。なかには3本、4本と持ち込む人もいる。
幼い頃、母が家で砥石を濡らし、包丁をせっせと研いでいた記憶がある。そう話すと、今はそういうことを自宅でする人もきっと少なくなったのだろうという。
ただ、従兄弟が引退すれば、もううちでは研ぐ人がいなくなってしまうのよ、と女店主は少しさびしそうに話してくれた。
1週間ほど経つと、できたと連絡があったので受け取りにいった。料金は1200円。
錆を落とし我が家に帰ってきた裁ち鋏は、午後の光に刃先を光らせシュキッ、シュキッという小気味のいい音を立ててさまざまなものを気持ちよくきれいに切ってゆく。

やっぱり、新しい鋏を買わないでよかった。






